神奈中は神奈川中央交通株式会社

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    神奈川中央交通株式会社

    神奈中バスの概要・創業の歴史

    神奈中バス概要

    神奈川中央交通株式会社(かながわちゅうおうこうつう)通称「神奈中バス(かなちゅうバス)」は、神奈川県平塚市に本社を設置するバス事業者とな。横浜は広い県だけに、意外と神奈中バスがどこが本社か?!って湘南エリア以外の私は知らないのよね~(←私が無知なだけかも?!) 平塚が本社!なんだ。そして、小田急グループの中に入っているんだって。小田急といえば、やっぱりロマンスカーでしょ。小田急グループの中で、湘南エリアを網羅しているんだけど、町田・多摩・綾瀬・にも営業所があるから、神奈川県だけのバスグループの所属じゃないんだって。・・・・ということは!バス協会とかにはどうなっているのかといえば、神奈川県バス協会と東京バス協会の両方に加入しているんだ。それにびっくりしたのが、日本全国のバス業界で、いまじゃ当たり前のワンマンバス(ちなみに子供のころ、ワンマンバスをワンワンバスだと思っていた)とか、今ではPASMOとかキャッシュレスが当たり前になったけど、その先駆け的なバスカードの導入を日本で最初にしたんだって! やるじゃん!神奈中バス。いろんなことを先駆けて導入していったから、バス業界のパイオニアでありリーダー的存在とは!!すごい~~ 神奈中バスの意外な一面を見ちゃった!ね

    神奈中バスの創業ヒストリー

    時代は・・・第一次世界大戦(1914年~1918年)に戻ります!! 第二次世界大戦じゃないので、念のため。第一次世界大戦は、日本の国土では戦争がおきなかったから、空襲とかで工場とかが焼かれることはなかったのがまず良かった!そして、その頃の日本はもうすでに、世界有数の工業国として近代工業が勢いに乗りまくっていたってていうのが、びっくり!!! 今から約200年近く前なのにねぇ~ その時代にすでに戦争中の連合国から軍需品の注文を受けていた。つまり軍需品を輸出していたわけだから、それは戦争特需でめちゃくちゃ儲かるよね。いつの時代も成金はいるわけで、もちろん注文がたくさん入って成金も続々と登場していたんだって。そんな時代に、まず横浜市内で賃貸自動車営業(今で言うレンタカーのようなもの)が始まって、その流れの中から乗合自動車が始まったんだって。そんな昔だから、車の台数も少ないだろうし、車を借りたい人がたくさんいれば、借りるのを待つ人もだちゃうから「だったら、借りて同じ方向の人は乗って!」っていう流れになったんだね。そして、それで当然ながらお金のやり取りが始まっていったんだよ。レンタカーから同じ方向の人たちを乗せちゃうというのが、バスの始まり。その乗合車の運行が始まったのが、その当時市街地で発展していた弘明寺(現:横浜市南区)から始まったんだ。当然ながら、商売が順調に行っているのを見て、おれも!おれも!いやこっちのに乗って!!とお客さんの争奪戦が始まって、争奪戦をすれば当然ながらだんだん無駄な争いはやめちゃおう!場所を分けよう!と落ち着き、遂に・・・、1921年6月5日には横浜市大岡町を拠点として相武自動車が設立!!!この相武自動車が、神奈中バス(神奈川中央交通)の直接的な起源。ここから神奈中バスのヒストリーは始まるんだ。ちなみに、1921年はつまり大正10年。総理大臣は原敬首相の時代。こんな時代に創業が始まったんだ~

    そして、1920年頃にはいろんな会社で出来てきて、平塚⇔伊勢原・秦野⇔平塚・厚木⇔戸塚・厚木⇔横浜とかいろんな自動車会社が乱立してきて運行を始めたよ。いろんな路線ができたってことは、たくさんの会社が増えていったということだわね。小規模の会社ができて、路線をわんさかだしてきたら当然ながら競合するのはいつの時代も一緒。そこで政府がでてきて1931年に「交通企業の合理化と交通事業の統制」と公布して、ようやく落ち着いたんだって。良かったね~

    2年後・・中央相武自動車1923年(大正12年)3月設立。と相武自動車に中央の名称が着いた!

    玉川電気鉄道(玉電)は横浜⇔厚木の乗合自動車を運営していんだけど、その玉電を、1936年10月に東横が玉電を傘下にしちゃった~!東横もなかなかやりますな。

    1937年(昭和12年)から日中戦争が始まった!日中戦争は、1945年まで続くんだけど、またまたたくさんのバス事業者が出来てしまっていたので、陸上交通事業調整法(昭和13年法律第71号)が公布されてにより、バス事業者は極力統合する方向に進んでいったとな。

    なんでそんなのが公布されたのか?!っていう時代の背景は、わんさか乱立気味になっていた日本の交通機関は、他社との競合で経営する体力も落ちていたうえ、昭和恐慌もあって経営悪化を招いていたうえ、利用者も便利じゃなくなっていたんだ。なんかバブル後の日本みたい。あのバブルで浮かれまくった後、一企業だけじゃなくって銀行でさえも倒産した時はかなりの衝撃だったわ。それから銀行だけじゃなくって、いろんな業態の会社も経営体力をつけるとかで、統合していったからそんな時代の背景と、その当時の日中戦争中の時代と似ているな。

    その時代も大手私鉄が吸収合併をどんどん進めていってはいたけど、利益利益と利益優先していって、政治絡みの大規模な贈収賄事件に発展していったりしていったんだよ。こりゃいかん。なんとかしなくては!!なんとか交通統合を正当化する法律を作っておくれ!と要請を受けた政府が、陸上交通事業調整法を制定したんだ。勘違いしちゃいけないのが、日中戦争の最中だから、政府が国家統制したのではないということ。この発令は交通業者求めたことって言うこと。

    日中戦争で日本国内は戦時体制がどんどん色濃くなったいった中に、1942年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)と小田急電鉄(現・小田急電鉄、京王井の頭線)を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたから、かなり統合されて今の時代に近づいてきたぞ。

    1945年(この年に日中戦争は終わる)には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した。疎開のために移転したというのが戦争の時代だったんだなぁ~としみじみ。

    戦後からの復興

    神奈川県中央部は、ありがたいことに横浜・川崎と比較すると戦災による路線のダメージは少なかったけど、戦後からの復興で輸送量はどんどん増加しているのに、運ぶための車両が足りない!という状況になって、1946年(昭和21年)に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を始めたんだって。そして、車両が足りないから運行できない。と運休に追い込まれていた横浜市内の一部路線を再開するために、東急電鉄と一緒にに横浜市交通局と臨時運転契約を結んだって。助け合うっていいよね~ やっぱり同じ業種同士、日本の復興の為には足並みを揃えるのが一番!

    戦時中の統合で、かなり巨大な鉄道事業者となっていた東急(大東急)から、小田急・京急・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分離したのが1948年(昭和23年)。合併前は小田急の路線であった井の頭線が京王の所属となり、その代わりとして箱根登山鉄道とともに神奈川中央乗合自動車が小田急の傘下に入る事になったんだ。かなり東急は大東急となっていたんだね。

    そして、ディーゼルバスの導入をスタートさせて、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開。1951年6月には社名を神奈川中央交通に変更した。1953(昭和28年に)本社を平塚市に移転!ここで本社が平塚になったんだ。沿線住民や利用者からは、この時期から「神奈中バス」という馴染みのある通称で呼ばれるようになったんだ。

    戦争が終わり復興がどんどん進むにつれて、横浜市の人口は急激に増加していったんだけど、その増加がまたすごい。終戦時の1945年(昭和20年)には62万人だったのが1951年(昭和26年)には100万人を突破!ものすごい増加。たった6年で、100万人を突破だもん。それだけ猛烈スピードで人口が増えていくと、一気に都市化が始まっちゃうんだけど、急激な人口増加に都市計画は間に合わない状況になっちゃって、市街地が虫食い的に拡大していくよね。そりゃそうだ。ものすごいスピードの人口増加だもん。そうすると、人口増加地域である「神奈中バス」エリアの通勤需要はこれまた増加の一途を辿っていったんだ。特に求められていたのは、東海道線沿線の鉄道フィーダー輸送の必要性が高くなっていたんだ。フィーダー輸送というのは、鉄道の駅から自宅地域までの輸送という意味。人口が増えて、団地もどんどん造成されていったから、最寄りの駅から自宅方向への輸送が求められていったんだよ。そうしたニーズに対応するべく、神奈中バスは順調に路線を復興しつつ、そして新しい路線を新設していったんだ。

    1953年(昭和28年)には、藤沢駅と横浜駅を結ぶ路線を15分間隔で運行し、急行便も新設したり、国府津駅までの鉄道と並行する路線も同じように、直行便の運航を増やして充実させていって、さらに各鉄道駅から住宅地への路線を新設して鉄道との連携輸送を行ったんだ。

    同じように、人口が増加していた小田急沿線からの路線も拡充し、町田地区でも道路の改良と共に次々と路線新設も行っていって、山間集落の宮ヶ瀬(清川村)や青根(相模原市緑区)などのにも路線を始めていったんだ。そして、車両の数も路線が増えるにつれて、当然ながら増えていき・・・1956年までの3年間に導入した車両数は126台まで増えていったんだ。快進撃はまだまだ続き・・・1958年(昭和33年)には京王との相互乗り入れという形態で東京都内にも路線拡大を展開し、調布市や関戸へも乗り入れをスタートする一方で、横浜市内では横浜市交通局や相模鉄道との路線免許申請の競合が多くなってしまい、当然ながら激しく競合しあって、“バスの戦国時代”と呼ばれる程の状況になってしまった。。。バスの戦国時代突入ってエネルギーを感じるね。競合するのはいいんだけど、新規路線をこっちもこっちもで、結局認可が下りるのが遅くなるということがバス戦国時代中にかなりあって、1960年頃に各社で申請前に協議することになって、2年後の1962年に協定を結んでようやくバスの戦国時代は幕をおろしましたとさ。よかったよかった。結局新規の路線の認可が下りないとその路線の運行を待っている路線の人たちが一番困るわけだから、やっぱりいつの時代も和議に尽きるよ。本当に。

    1963年(昭和38年)以降は、町田・横浜地区のほかに小田急沿線での大規模団地造成されていって、当然かなり大幅な輸送力増強を迫られていったんだ。路線が増えれば運ぶための車両がいる!!!よって車両の増備が急速に進められて、1970年に路線バスの保有台数は1000台を突破!!! 路線が増える→車両が増える→車両置き場を兼ねて営業所を郊外へ移転 当然車両置き場も兼ねるから敷地面積も拡大する という手法がとられていって、車両も1957年からの5年間で、233台も車両が増えたんだって~ 人口の増加とともに、バスも増えていったんだね。そして、私たちの営業所にバスが停車されている風景が出来上がってきたね。

    日本初の整理券方式ワンマンバス

    人口がどんどん増加していくにつれて、輸送力増強に追われていく中で、それを運行させる人・要員不足が悩ましいことになっていったんだよ。いわゆる人手不足。おまけに、1947年に労働基準法の女子の保護協定(深夜勤務の制限)ができて、女性車掌の深夜常務が不可能になってしまったんだ。その当時の女性車掌は、若い女性が多くて若い女性のあこがれの仕事だったんだよ!だけど、深夜常務がダメとなってしまったから、車掌さんの採用がますます難しくなっていったんだ。バスの車掌の仕事は、乗車券の販売や乗客の安全確保、指さし確認で発車合図(発車!オーライ!)

    そんな時代背景の中で、一つの画期的なことが起きたんだ。それは、大阪市交通好局(1951年6月)で行われていたワンマン化でのバス運行があったんだ!それはそれは画期的。その大阪であった事例は、あくまでも夜間での事例とはいうけれど。。夜間ならば乗客も少ないし、料金も均一の区間だから料金を車掌が販売する必要がなかったからだったんだけど。それから、徐々にワンマン化されていた路線も増えていったんだけど、ワンマン化された路線は均一運賃体系で、多区間運賃制路線では申告制前払いでのワンマン化だったようだ。だけど、「神奈中バス」は大多数の路線が運賃区間の多い路線でだったから、ワンマン化を導入しようにもその事例が他社で存在しなかったから、いかにしていろんな運賃を確実に支払ってもらえるか?!ということを考えるようになったんだ。時代の流れだね~

    そこでだ考えた!!ワンマン化するにはどうしたらいいのだ?!車掌さんが乗り降りを確認して、料金をもらっていたけど、車掌不在でどうやって乗客がどこで乗ってどこで降りるかを確認すればいいのだろう!!!!

    乗車時に乗車整理券を取ってもらい、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという「整理券方式」のワンマンバスを導入する事になったんだ!バスに乗る時に紙を取る。そこに番号が書いてあって降りる時に、その番号と値段を確認してバスを降りる時に支払うという、とっても馴染みのある方法がついに完成したんだ!

    そして、1962年11月1日に試験的に運賃区数2区間での路線でワンマン化がスタート!ちなみにこの時の整理券はボール紙で出来ていて、前扉付近に整理券ホルダーを設置したんだ。それから、「神奈中バス」の乗車方法は前乗り前降りが基本。バス会社によって後ろ乗り前降りとかあるけど、「神奈中バス」の乗車スタイルルはこの時に決定したんだね。その後も整理券の機器の開発を進めていって、さらに2年後の1964年4月には運賃区数5区間の路線でもワンマン化ができるようになったんだ!この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法となって、さらに同年10月には運賃区数8区間の路線にも導入されたんだよ。確実に料金が回収できるようにシステムされていったんだね。そうして、1965年2月1日から伊勢原と茅ヶ崎の二つの営業所で本格的なワンマン化を開始したんだ。その翌年1966年にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機械が開発されて、運賃区数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になったことから一気にワンマン化を促進して、1966年10月1日には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化に成功!おめでとう!!

    ワンマン化のスタートから4年でほぼ全路線でのワンマン化というのがすごい

    ちなみに、日本の国内では多区間運賃制路線でのワンマン化は「神奈中バス」が初!急速でかつ広範囲にワンマン化が進めていったけど、監督官庁から安全性を危惧する意見がでてきたので、改善方法として狭い道路や見通しの悪い道路は、待避所やカーブミラーの設置を進めるていって、特に見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処したんだよ。またその当時は、同業者のバス事業者もワンマン化に反対していて、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあったりして、労使共に説得したこともあったんだって。今では当たり前のワンマンバスだけど、ワンマン化すべく先駆者としては理解してもらえるように頑張ったんだよ。いくら他社からクレームを受けても、時代の流れは止められず、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるけど、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となったのは知ってのとおり。ちなみに「神奈中バス」では、1974年5月の大秦野駅とヤビツ峠を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成してたんだ。導入から10年経過する前に、見事に全路線をワンマン化したのはお見事!

    日本初の深夜バス運行開始!

    人口の増加で人の流れも変わり、都心部から郊外へ住宅や大型店・公共施設などが移ることによって、都市が郊外へ拡大していくことにつれて、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせて欲しい!という要望がどんどん強くなっていったんだ。もちろん「神奈中バス」も同じような要望を受けて、1970年5月には入居が開始されてから間もない鶴川団地の住民より、最終バスを延長するように申し入れを受けて、「神奈中バス」はこの要望への回答として、同年7月27日より鶴川駅→鶴川団地行きのバスについて、23時10分と23時30分の深夜便を設定することを決定。この深夜便バスは通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点からこの深夜バスは貸切扱いとして、定期券は利用不可・運賃を通常の3倍に設定しての運行をしたんだよ。この運行が、日本初の深夜バス運行。ちなみに、運行初日の第1便は8名の利用者よりもマスコミ陣が目立った状態での初運行。おまけに、深夜バスの運賃設定に反発した一部の住民が、会員制の「自主バス」を運行したり、導入した深夜バスの運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行うなどの動きまで出たんだって。最初は、波乱の幕開けだった深夜バスだけど、路線の拡大や運賃の据え置き・引き下げをすることによって、乗客も「自主バス」から深夜バスに移行していき、1980年までに「自主バス」は廃止となったんだ。これも、今ではごくごく当たり前の深夜バスだけど、それが当たり前になるまでにはいろいろ試行錯誤していっているんだね。

    日本初のバスカード導入(多区間運賃制路線の中で)

    「神奈中バス」はプリペイドカード式回数乗車券(バスカード)の導入を決定した背景を調べてみよう~!

    回数券利用者が全乗客の27%を占めていて、それに加えて定期券利用者もいるよね。そして、運行している事業区内の大半の路線が多区間運賃制。このどの区間にも対応させる目的で金種別に当初は、19種類もの回数乗車券を発売していたけど、すべての利用者に満足できるものではないうえに、また回数乗車券の後方業務も19種類の種類となっていたら、複雑で面倒になっていたんだ。

    導入当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったようだけど、多区間運賃制の路線に対応したシステムはまだ存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があったんだ。そこで1985年に三陽電機製作所と共同でシステム開発に着手して、1987年10月20日に伊勢原の路線バス15台で実用化を前提とした試験を開始したんだ。この結果を受けて翌年1988年5月9日より「神奈中バスカード」の運用を開始。このバスカードは、多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例で、導入した2年後1990年3月26日には全車両での導入を達成してんだ!このバスカードのシステム開発と導入にあたり、運輸省から「昭和63年度バス交通活性化補助」を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてとなっている。バスカード導入もこれまた日本初!

    「神奈中バス」がバスカードを導入した同時期に、他のバス会社でも(奈良交通や長崎自動車)バスカードシステムが導入されてきたから、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加していったんだ。この点でもまさにパイオニア!神奈中バスカードは、その後バス共通カードへ発展していったので解消していく事になってしまうけど、当初は神奈中のバスカードに採用されていたシステムとバス共通カードを導入していたバス事業者のバスカードのシステムが異なっていたから、バス共通カードが完全に導入されるまではバス共通カードを使用できない車両が存在したんだよ。だけどその一方で、カードの割引率などは神奈中バスカードにおいて設定されたものがバス共通カードでもそのまま踏襲されており、PASMOの「バス利用特典サービス」の特典バスチケットにもその金額は引き継がれているだ。そして、現在PASMOでバスだけではなく、電車へも乗れるようにと進化を遂げたのだ~。